母からみたアトピーの僕 前編

[アトピー・ノート] 横井謙太郎

2014年7月16日 [水]

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『ママ~このブツブツいつなおるのぉ…?』砂場にしゃがんで遊んでいた息子(ケン)が、私の顔を見上げながら、突然聞いた。幼稚園に行き始めた頃だった。
私は答えるのに困った。『いつか 治るよ…大きくなったら…ね。』心が痛かった。曖昧な答えでケンに治ることを期待させた。

小学校、中学、高校と…ケンは私に、この時以来一度も『いつ治るか?』と聞くことは無かった。きっと何度も聞きたかったに違いない。
ケンに沢山の葛藤があっただろうに…1人で忍耐強く、弱音も言わず、疑問を持ちながらも頑張ってきた。私はこの子のアトピーが治るためなら何でもしようと心に誓った。

生後1ケ月、頭から額にかけて脂漏性湿疹が出た。産後、間もない私はうろたえた。私の母が助けてくれなかったら、私はどうにかなっていただろうとさえ思う。
それからというもの病院の薬を信じ、ぬり続けた。薬を使わないと、ケンは30分位眠ったら、すぐ起きて、また泣き続ける…初産で母親もぶっつけ本番で、右も左も分からないまま…
かなり大きくなるまで、抱っこしないで眠れる日は無かった。赤ちゃんは、お腹・オムツ・眠りが満たされていると泣かないのですが、ケンにはそれプラスかゆみがあった。
どうして良いか分からないとき、抱っこしながら一緒によく泣いていた。私の母はミトンの手袋を作り、ケンには欠かせない物になった。また母は小豆をガーゼにくるみ、そっと叩いて皮膚を冷やしてくれた。

2歳の頃、皮膚科から小児科内科へ行った。飲み薬も出た。強い薬だったと思う。当時あまり説明されなかったがステロイドだった。これで治ると信じていたが…!!
副作用により、ムーンフェイスになってしまった。薬に対する不信感、長い間使っても良いのだろうかという迷いの中で毎日が過ぎていった。

4歳の頃、同じマンションに住む年配の婦人に自然食を薦められた。それをキッカケに、ステロイドを止める決心をした。それからというもの、アレルギーと食べ物の研究に没頭し続けた。

昔、食べ物の質が良かった頃にはアトピーはほとんどなかったこと、スーパー等が発展し、何時でも食品が買えるようになったり、保存料や着色料が体に良くないこと、長い間続ける薬は身体に毒素として溜ってしまうこと、等。とにかく夢中になって勉強した。
娘から母親になった私は必死だった。この頃私はケンのお陰でたくさんのことを学んだ。近代の食べ物には、もうエネルギーが欠けていること。三白害と言って、白米、白パン、白砂糖は、美味しいが、栄養素を全て落としてしまったカスだ!なんていう本も読んだ。

玄米、玄米パン、黒砂糖、麦味噌、自然発酵醤油、天塩と、全て変えた。当時、スーパーで買うより三倍位高い値段だった。コーラ、カルピス、スナック菓子、チョコも買わない。お茶はドクダミ茶(今はルイボスティが知られている)
ゼリーは外で買わず、寒天と100%ジュースを固めた物、チョコの代わりに、黒砂糖のふがし、かりんとう、ムギチョコ等。 幼稚園に持って行くお弁当はいつも玄米。
ケンは「なんで?ぼくのお弁当!黒いのぉ~?」って聞いていた。
肉はブロイラーでない皮を取った鶏肉のみ、グルタミンという名でしたか大豆と根の物(人参、蓮根等)をミンチにしてハンバーグ風にした物、等。

ステロイドを止めるかわりに、何かに熱中しなければ、居ても立っても居られなかった!

続きはまた後編にお伝えしたいと思います。

横井謙太郎

NPO法人アトピーを良くしたい代表
生まれつきアトピー性皮膚炎があり、重度の症状に苦しんだ時期もあったが、現在は軽度まで改善。様々な治療を試し、今度は自分が支えになりたい「100人のアトピーの人がいたら、100通りの良くなり方がある」との想いからNPO法人を設立。アトピーサロンの定期的な開催、アトピーの人たちの夢を叶える「ドリームウィッシュプロジェクト」をはじめ、最近はメンタル面のサポートとしてカウンセリング事業にも注力。
NPO法人アトピーを良くしたい(http://atopyrecording.org/)

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